日本煎茶の祖 永谷宗円

創意工夫の新製法

湯屋谷村の近郊である宇治は、当時、碾茶栽培の先進地で天下一の茶どころであった。宇治の進んだ栽培・製茶の様子は宗円にも手に取るようにわかっていたことであろう。しかし、当時、高級な碾茶栽培(覆い下栽培)は、宇治の特定の御茶師にしか許されてはいなかった。宗円は法に触れずに露天栽培でも優れたお茶をつくれないものか、煎じ茶製造農家の暮し向きを少しでもよくできないものかと試行錯誤を繰り返したのであろう。

宇治では古くから碾茶を製する際に選り除いた葉柄・支脈を「折物」と言い煎じて飲んでいた。これらは揉捻をしていないため、適当の濃度にするため煮沸する必要があり、水色(すいしょく)は黄色であったが、甘味があり特有の香りを有している。

この風味からヒントを得、碾茶製法の蒸す、焙炉で乾燥するという工程を煎茶に応用し、それに、釜炒り工程やむしろの上で行っていた粗雑な揉捻作業を焙炉上で丁寧に揉むよう工夫していったのが、新製品の誕生に結びついたのであろう。

こうして、元文3年(1738)、宗円は露天栽培のやわらかい新芽だけを用い、蒸してから焙炉上に設けた助炭の上で始終手で揉みながら乾燥させるという新しい煎茶を編み出したのである。当時、宗円58歳、15年に及ぶ苦心の結実であった。


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