日本煎茶の祖 永谷宗円

宇治製煎茶の伝播

やがて、宗円の新製煎茶すなわち宇治製煎茶はひろく伝播されていった。宗円が考案した元文3年(1738)から4、5年のうちに湯屋谷では7、8軒が宗円同様の茶を製するようになった。1742年には同じ宇治田原の大道寺村においても製せられ、以降宇治田原の各地や宇治へと広まっていく。寛延年間(1748〜51)には相楽郡和束へ、宝暦年間(1751〜64)には、国境を越え近江国信楽・政所へと伝えられる。
寛政年間(1789〜1801)から19世紀に入ると、宇治製煎茶は近畿各地の茶産地に広まり、天保年間(1830〜44)には伊賀や駿河など、全国の茶産地に徐々に広まっていった。各茶産地では茶業者を宇治へ派遣するか、あるいは宇治から茶師を招いて宇治製法を習得し、煎茶の品質を大きく向上させたのである。

その後、横浜開港と同時に煎茶の輸出が盛んとなり、生糸とともに輸出産業として栄え、全国の茶産地に好況を呼ぶことになった。遅ればせながら宇治製法を導入した産地も多く、明治初頭までにはほぼ全国に普及するに至った。

そして、現在では機械化されているが、日本煎茶の大部分は宇治製法によるものであり、宗円の製法は今も脈々と受け継がれている。


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